ある日突然ウツになりました

社会人11年目で突然うつ病になったOLの闘病記

退職させてください

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村


再度診断書で「3か月の加療が必要」となった私。
5月の終わりに休職が始まり、7月末までの診断書が出て、追加で3か月なので10月末までは働けないということになります。


この頃、会社との窓口は全て母に任せていました。どうしても会社に行けない、電話もできない、会社の事を考えると涙が出てくる状態だったので。


母が会社へ再度診断書が出た旨連絡すると衝撃の事実を聞かされます。どうやら私は勤続年数が短いため(転職組)、3か月も休めないとのこと。それを2か月休んだ今の段階で初めて聞かされる。すごく動揺しました。すごく涙が溢れてきました。9月半ばには退職か復職か決めてくれと言われ「あと1か月半なんて、治ってる訳ない、辞めるしかないじゃん・・・」と絶望しました。



  
   
ウツ病と診断された数日後に、私はキャリアのスマホを解約してMVNOにMNPしました。誰とも連絡取りたくない。友人の中から私の存在が消えたらいい。そう思っての事です。でもこの頃にはそういう症状は落ち着いていて、関係を絶ちたくない人へSMSでメッセージを送って再度LINEで繋がりました。
    


会社からの連絡で絶望した私は、LINEで繋がってるすべての友人(といっても6人くらい笑)に「急にこんな事言われたの。酷くない?もう辞めるしかないんだ・・私会社辞めるね・・・」とLINEをしました。今思うと何やってるんだろう、相手に何を求めてるんだろうって感じですけど、とにかく誰かに話を聞いて欲しかったんだと思います。
みんなから「そうなんだ、それは酷いね。でもまだ若いんだからゆっくり休んで再スタートできるよ」というような励ましをもらって、なんとか精神を保っていました。こうなりゃギリギリまで休んで辞めてやる。全面的に被害者面してやる!という変な意地で悲しい気持ちを殺していた感じもありますね。
   


『どうせ辞めるんだから』という気持ちで生活を始めると、なんだか少し体調が良くなっていったような気がします。泣く回数も徐々に減り、両親は「こんな様子なら、別に9月半ばまで待たなくても今月(8月)辞めたらどうだ。まだ会社に縛られている状態だから気が休まらないんじゃないか」と言うようになりました。確かにそれもあるかな・・と思い、私はついに決断をします。
 


「退職させてください」
再度診断書を提出してから半月ほどで、会社へ退職の意を伝えるメールを送りました。





にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村

私的ウツの症状

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村



さて。そんなこんなで主治医から「2か月の加療が必要」と診断書をいただき、私の闘病生活がスタートしました。


1Kのマンションで一人暮らしをしていましたが、その日から母がずっと泊まってくれることになります。


 


ウツ病の症状としてよくあるのが「不眠」「食欲低下」「意欲喪失」「自己嫌悪」「希死念慮」でしょうか。もれなく全て経験しました。


眠れない毎日はとてもツラく、2時や3時に何度も目を覚ましては絶望していました。食欲もなく、母が作ってくれた料理を食べる事ができずゼリーやドリンク、果物を食べて薬を飲んでいましたね。そして全てのものへの興味が失われる。一生観ていられるわってくらいテレビっ子だった私が、テレビつけない電気もつけない、生活音が不快で耳栓をして、日光がイヤでアイマスクをする。そんな状態で一日中泣きながらベッドに横になっている。思うのは「消えたい」「30過ぎて働いてない自分に生きてる価値はない」そんなことばかり。小さな事でイライラして母に強く当たり、その後すぐに「母に嫌われたら自分はおしまいだ…」と思い泣きながら謝る。地獄でした。



自分の中で一番つらかったのは自己嫌悪。一日中自己嫌悪に陥る日もありましたが、さっきまで調子良かったのに急に自己嫌悪…という時もありました。
「働いていない」という現実が自分を相当追い込み、「ダメ人間だ」「価値がない」「消えた方が皆のためになる」「誰からも必要とされていない」とドンドン深みにハマっていきます。母がいくらそれを否定してくれても意味はありませんでした。どこかで「母の一番は父で、その逆もしかり。私を一番に考えてくれている人はこの世に存在していない。つまり私には価値がない」と、本気でそう思っていました。


そうなると次に来るのが希死念慮ですが、私はここに関しては非常に軽いタイプだったと思います。発症時に「飛び降りるしかない」と思ったものの、ベランダに出ることもしませんでしたし、頭に浮かぶのは「消えたい」という思いだけ。死にたいんじゃなくて、消えたかったんです。死にたいとは違うと私は思います。死ぬのはイヤだ。少なからず悲しむ人がいるから。だから、消えたい。サー―――っと光の粒のように消えたい。そんな感じでしょうか。みんなの記憶から消えてしまいたいって感じですね。


「いま飛び降りたら・・・」って考える事は何度もありましたが、それは死にたい消えたいからではなくて『働かなくてもいい正当な理由が欲しいから』です。飛び降りれば怪我をする(住んでたの2階なんで、死にはしないでしょう)、そうすると多分入院できる。入院しているんだから仕事にいけないのは当然。そう!私は許される!というような思考回路ですね。とにもかくにも「働いていないという事実」が私を苦しめる毎日でした。




《日記を書くと良い》
どこかでそんな話を聞きまして、6月からタイムスジュールのように何時に何をした、どう思った等を書き綴っています。その日その日よって本当に感情が違います。ベースに「自己嫌悪」がありますが、「こんなんじゃダメだ!あれにチャレンジしてみよう」という意欲的な日もあったり、そのまま落ちるとこまで落ちている日もあります。ブログを書くにあたって読み返していますが、当時の辛い気持ちが蘇ってきて涙が出てきてしまいます。まだまだ回復途中の段階ですからね。仕方ない。




私的ウツの症状は上記のようなものでしたが、症状は本当に人それぞれ。頭痛や胃痛、肩こりがある方もいますし、自傷行為をする方も少なくありませんね。こういうのは比べるものではないと思いますが、私は「特に何の前触れもなく突然こうなった」ので、無理をしている期間が少なかったために比較的症状も軽いものだったんじゃないか…と思います。あの時なんとか我慢し、翌日普通に仕事に行っていたら今頃どうなっていたのか。考えたくもありませんね。我慢して我慢して我慢して、その先に何があるというのか。




ウツに必要なのはしっかりとした休養です。ただ仕事を休むだけではなく、本当に心を休める事です。なので「2か月休んだんだから相当でしょ」と思うかもしれませんが、実際2か月で心が休まっていた日は一日もありません。毎日自己嫌悪に襲われ消えたがっていました。



ですので、再度診断書が出るわけです。「あと3か月は加療が必要です」と。





にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村

それは突然やってきました。


始めまして。U2(ユーツー)と申します。
四国在住、会社員(女)です。


「うつ病」と診断されて丸5か月が経とうとしています。
薬のおかげで体調もだいぶ落ち着き、今までを振り返りたいなぁと思いブログを書くことにしました。



最近、「本を読む」という行為ができるようになり、うつ病に関する本や漫画を読んでみると大体が「こういう前兆があり・・・」というようなものでした。
でも、私は本当に突然だったんです。あの時、その瞬間まで何の前兆もありませんでした。



2018年の5月。日曜日の夜。一人暮らしのマンションでいつものように夕食を食べようとしていました。その日は日中、大好きな友人と屋外イベントで屋台を巡ったりして楽しく過ごしていました。「今日は楽しかったなぁ~」なんて思いながら一口食べた瞬間です。


『・・・気持ち悪い・・え?違う。怖い。・・・怖い怖い怖い!!!!!!!』


突然、漠然とした不安感がすごい勢いできたんです。食べるのはもうやめてベッドに潜りこみ、気を紛らわそうと楽し気な動画を観ようとYoutubeを起動させますが不安感は大きくなるばかり。


『ダメだ・・・・。飛び降りるしかない
(住んでいたのは2階ですけど)





そう思っては「は!?今私飛び降り考えた!?は!?」と正気(?)に戻り、また襲ってくる不安感に「これから逃れるには飛び降りるしかない」を繰り返す事2時間。
もはや飛び降りる事が大部分を占めてきた状態でしたが、これでダメなら飛び降りる…と最後の手段的に母にLINEをしました。



「なんか変なの。すごい不安でおかしいの。飛び降りちゃうかもしれない」



すぐに母から電話がかかってきましたが、泣きながら「おかしいの。なんか変なの。変な事考えちゃう」としか言えない私。


「すぐに行くからね。大丈夫よ。」と母の優しい声で励ましてくれ、実家から2時間かけて来てくれました。母が運転中は父から電話がありました。「大丈夫か?寂しくなっちゃったか?すぐにお母さんが行くからな。心配しなくていい。大丈夫だから」と、もう本当にこれが命綱のようで。母や父の声を頭で再生しながら大丈夫大丈夫・・・と自分に言い聞かせて母の到着を待ちました。



2時間後、「ほら、大丈夫だったでしょ?」と笑顔で到着した母。
泣き続けている私をベッドに寝かし、「明日病院に行くからね。大丈夫よ」と。



この時には「母がいるから飛び降りない。大丈夫」「あぁ明日の朝会社に休むって連絡しなきゃな」「漠然とした不安感だったな。不安障害かな」と少し冷静に考える事も出来つつ、それでも朝までシクシクと泣き続けていました。






翌朝、実家にいる父が知り合いの病院関係者に評判のいい精神科をいくつか教えてもらい、それを母に連絡してくれました。かたっぱしから母が電話を掛けてみるも「最短ですと2か月後で・・」「紹介状がない方ですと・・」とすぐ診てくれる病院はなかなかありませんでした。そんな中で1つ、大きな病院の受付の方が「当日診てくれる心療内科が〇〇にあります。電話してみください」と情報を提供していただき、早速連絡すぐ出発。


私は私で会社に電話をするのですが、「体調が悪いのでお休みさせてください」と、冷静に電話をすることができました。風邪をひいてしまった時と同じような感覚で、同じよう声のトーンで。電話することへの恐怖心や不安感などもありませんでした。



母の運転する車に乗り込み、いざ出発!となると涙がポロポロと溢れてきます。「大丈夫よ。大丈夫だから」と母はずっと声をかけてくれます。病院に到着しても涙は止まらず、泣きながら受付を済ませ泣きながら問診票を書き泣きながら診察室へ入りました。


担当はおばあちゃん先生。70歳くらい・・・・?な印象。
泣きながら状況を説明。「昨日ご飯を食べていたら急に」「昼間は普通に友達と遊んでいた」「昨日は母と楽しくランチをした」「仕事で悩んでいる事は無い」などなど。
先生が色々お話してくれたと思いますが、ちょっと全然覚えてないです。
大した説明もなく「不安を取るお薬よ~」的な感じて薬が処方され、終了。
あれ?こんなものなの?なんか世間話感覚?ちょっと思ってた感じじゃない。求めてた感じじゃない。私、救われてない!


薬をもらって家に帰り、すぐ母に言いました「別の病院に行きたい」と。
母も了承し、かたっぱしから掛けまくっていた病院の1つに再度アタック。翌日夕方に診ていただけることになりました。


さて、そうなると明日も休みますという電話をかけないといけません。
この時初めて「私・・・しばらく休む事になるのかも・・・」という現実が出てきて、会社に電話する際にとても緊張して手が震えていました。


直属の上司が電話口に出て「あの・・明日も別の病院に行きたくて‥その、精神的なものみたいで…」と言った所で泣き始めてしまい、後の言葉が出て来ません。もうほぼ嗚咽。そうすると上司が「大丈夫。気づいてあげられなくてごめんなさい。仕事の事は気にしなくていいから。」と、泣きながら返してくれました。
嗚咽混じりに「本当にすみません。原因も分からなくて・・すみません・・また連絡します・・」と電話を切り、ひと仕切り泣き、ベッドに横たわる。



翌日行った診療所は一人一人にすごく時間をかけて話を聞いてくれる先生で、薬についても丁寧に分かりやすく説明してくれます。ここがかかりつけ医となる訳ですが、ここで「不安抑うつ混合型」と診断され、休職するよう指示をされます。




こうして私の闘病生活はスタートしました。